月下香アメンチア(上)

締め切った厚手のカアテンの透き間から白い光線が入り込み薄暗い部屋に線を引いて、そこだけを明るく浮き上がらせた。

まだ未の刻…二時になって間もない。
山県は差し込んだ光に埃が反射してきらきらと輝くのを見ながら、窓の外の日の高さに思いを馳せる。

木戸は壁に右手を付き左手でカアテンを握り絞め、白い尻をこちらに突き出している。動きが無いのに焦れたのか、尻は厭らしくくねり、山県が揺揺と腰を動かすと媚態の交じった呻きを漏らした。
木戸に掴まれたカアテンは、揺れ、光の白線は新しい模様を床に、壁に刻んだ。埃は相も変わらずきらきらと舞う。
カアテンの吊しが引き攣って壊れる事を危惧した山県は、木戸の左手を慎重に羅紗の布地から剥がし、自分の左手を重ねて包む様にした。そして、握り込んだその手が意外に大きく、ごつごつとしていることに驚いた。驚いて、木戸が江戸の練兵館で名を振るった剣客であることを思い出した。
山県には、昔の、精悍な美丈夫であった桂小五郎と、自分の下で女の様に浅ましく淫茎をねだる木戸孝允とが、上手く同一の存在として重ならない。


元々、山県にとって『桂小五郎』は遠い人物であった。
勿論、仕事の上で言葉を交わすことはあったが、それは業務の域を越えない。また、大人数での遊興で同席することもあったが、やはり個人的な付き合いをしたことは無かった。
例えば、伊藤等は桂の引立てによって活躍の場を得たと言って良いが、山県は違う。山県は特定の他人の引立てを受けたとは言い難い。強いて言えば高杉晋作の背を追って来たと言えるだろう。

正直に言うと、山県は高杉晋作に対して多大なるコンプレックスを抱いていた。
強い羨望、少しの信頼、そして内臓がよじれる程の嫉妬。そのような感情がないまぜになり、否定しきれない憎しみ、そしてそれ以上の愛情を、山県は高杉晋作に向けた。
山県は元来、努力の人である。(もちろん努力だけではなく、上手く時勢に乗り、戦場で間一髪で死を避ける、その強い運も彼を今の地位まで到達させたらしめる一因でもあるが。)
その点、高杉晋作は天才型の人間である。山県が必死で成し遂げるものを、造作なく(少なくとも山県にはそう見えた)簡単に実行してしまう。

山県にとって高杉は、"絶対に"成り得ない目標である。
例えば、山県には生まれながらの高い身分や後ろ盾がない。高杉にはある。山県にはカリスマ性が無い。高杉には有る。(高杉には何処か人を強烈に惹き付ける所が有った、良くも悪くも。)
身分や後ろ盾は自分の力次第で得られるが、自分の性質が他人を惹き付け得ないことを、山県は知っていた。知っていたからこそ、強烈に執着したに違いない。
その、山県が憧れてやまない高杉晋作が、一目置いて、特別な信頼を寄せて居る人こそが桂小五郎であった。
山県にとって、自分が決して到達為得ない、高杉の隣という場所にいる桂小五郎は、羨望の念を抱くことされ許されない相手であった。



山県は、木戸の白い尻と、それに密着した自分の黒々とした淫毛とのコントラストを眺めた。
こうして居ると、桂小五郎と木戸孝允は、別の、接点の全く無い人間のように思えた。

室内には獣の様な荒い息遣いだけが響き、篭った熱気が、空気を重ったるい様子にさせている。
丸出しの下半身とは対照的に、タイまできっちりと身に着けた木戸の上半身の、スウツの下の肌着の、そのまた下にある素肌を汗が滑る様を想像し、山県は薄暗い興奮を覚える。
木戸の頭はぐらぐらと、支えを失った百合の花のように揺れ、西洋風に刈り上げた美しいうなじが襟元からちらちらと白さを主張した。
黒々と結い上げられていた髪を、木戸がばっさりと切ってしまったのは何時のことであったか。木戸の中に桂小五郎は確かに居るのに、その存在は非常に希薄であると山県は思う。
山県がうなじに唇をよせ、その髪の生え際までもをざりざりと舐めあげると、握り込んだ手がもがく様に二三度宙を掴み、そのまま掌に爪を立てた。
木戸が感極まった声を上げ、床に粗相をしたのを確認し、山県は木戸の尻から淫茎を引き抜いて数度扱き上げ、自らもまた床の上に精を零した。


太陽はいつの間にか雲に隠れてしまったらしく、カアテンの隙間から差し込む光は、薄ぼんやりとした物になっていた。
山県は、木戸孝允から書類を受け取り、部屋を辞した。元々はその為に木戸の執務室を訪れたのだ。
書類に目を落とす。わざわざ山県が目を通す程でも無い書類だ。呼び出す口実だったのだろう。


木戸孝允の腐敗は内部から、誰にも気付かれずに進行した。否、誰も気付こうとしなかった。目を背けた。
人が木戸の体臭に混じる微かな腐敗臭に気付いた時には、もう事態は手遅れであるに違いなかった。
熟れ過ぎた果実の香が昆虫を誘うように、木戸の体臭は他人を惑わした。


木戸は恋をしている。



木戸の想い人は薩摩の大久保利通である。木戸は身悶える程大久保に惹かれている。

しかし長州の首魁としての立場が、矜恃が、木戸を縛った。木戸は恋の心臓に刀を突き刺そうとし、為損じた。
咄嗟に切っ先を逸らし、急所を避けた錆刀を取り込んだ儘に、木戸の恋は歪に膨らみ、じくじくと膿んでは時折血を流すのであった。

木戸は元々美しい男であったが、その美貌は恋に身を焦がす事によって益々研ぎ澄まされた。
鍛え抜かれた体躯はやや窶れ、頭痛の為に血の気の引いた肌は女の様に白く年齢を感じさせない。青白い肌とは対照的に赤く染まる唇は物憂げに吐息を漏らし、黒眼勝ちな瞳は涙を称えて淫靡な光を放ち、黒々とした形の良い眉が苦痛で寄せられている。
退廃的故の、人を堕落させるような壮絶な色気である。


山県と木戸が寝たのは、台湾出兵による大久保との意見の相違で下野した木戸が、大阪会議を経て政界に戻って来た頃である。
木戸は大久保から離れようとした。しかし離れることは出来ずに、元の場所へ舞い戻ってしまったのだ。

木戸が山県の背中に縋って関係をせがんだ時、山県は断る事も出来た。木戸にはもう政治的な利用価値は無いと判断したからだ。それをしなかったのは、山県が長州閥という括りを出るつもりが無かったこと、そして脳内に高杉の顔がちらついたからであった。
憧れて憧れて、しかし決して届かなかった高杉晋作。その隣に居た桂小五郎を征服する。その快楽を想像して山県の暗い部分が歓喜に震えた。

山県は木戸の躯を根気よく慣らした。
木戸は初めて男に貫かれる苦痛に、そしてそれ以上の快感に、頭を潰された蛇の様に身を捩りながら口元を歪めて笑った。いや、実際彼には笑う積もりでは無かったのかもしれない、苦痛の中に偶々出来た表情だったのか。
その時、唇を寄せた木戸の首筋がひんやりとしていて、ふと、病牀の高杉の、蒲団から突き出た手を握った時の温度を、山県は思い出した。




山県が書類から顔を上げると、廊下には山田顕義が居た。小柄な体躯を壁に凭れ掛けさせ、此方を見据えている。
もう三十を越えた年齢だと言うのに、相も変わらず少年の様な見た目で、数年前の戌辰の戦の折、西郷に『稚児の如き』と評されたのも頷ける。

「随分長々と話しちょったな。」
山田は壁から背を離し、機嫌の悪さを隠そうともせずに、吐き捨てる。
「まるで男妾だな、山県。恥ずかしくないのか」
「私は閨で何かを強請った覚えは無いな」
下から睨み付けて来る山田を見下ろし、山県は自分が優位に立って居ることを確認した。
「それとも、木戸さんが情人の頼みを軽々しく受け入れるとでも」その言葉を受けて、山田は目を逸らし、呟く。
「木戸さんは何故お前みたいなのを、理解に苦しむ」
「何故自分ではないのか、と、そう思っているんだろう。お前は私と取って変わって、木戸を抱きたいのだ。違うか」
山田は、ぎっ、と憎しみの視線を此方に向けた。顔は酷く青ざめている。
山県は更に追討ちを掛けた。
「残念だったな、木戸さんが選んだのは私だ。」
山田が拳を握り絞め、青ざめた頬に血の気が戻って来た。その時、扉の開く音がした。

木戸が顔を覗かせた。

「市、なんだ来ていたなら顔を出しなさい。美味しい饅頭が有るんだ。」
山田を、旧名から来る愛称で呼ぶその顔は、先程の情事の後を全く残していない、年少の者を気に掛ける優しい笑顔である。この様な時、木戸の中の桂小五郎が息衝いて、現れる。
山田は酷く狼狽しながら、木戸の言に従って部屋に這入った。
木戸は山田の肩に手を置きながら、振り返って山県を見た。そして口の端を吊り上げた。

「ああ、聞いていたな」と、木戸の背中を見送り、山県は思った。


「山田、お前は木戸に近すぎるんだ」
山県は聞こえないような小さな声で呟いた。
木戸は近しい者に、己の醜い欲望を見せる事が出来ない。山県が選ばれたのは、山県が木戸に無関心であるからだ。木戸の、その残酷さに、山田は何時気付くのだろうか。

ふ、と破顔して山県は廊下を歩き出した。
近い内に、木戸は大久保と寝るに違い無い。木戸の近しい者達は、山県の方が未だ増しで有ると嘆くので有ろうか。


太陽は雲に覆われて見えない。夜には雨になり、月を隠すだろう。