月下香アメンチア(下)

人生最後にして最大の恋だと木戸は思った。
木戸は大久保を見る時、いつも息が止まると思ったし、書類の受け渡しで手が触れただけで胸が苦しくなった。
木戸は大久保を愛しているからこそ憎んだし、憎んでいるからこそ愛している。
そして、大久保の気持ちが決してこちらに向かない事を、木戸は知っていた。



木戸の向かいに座っていた井上馨が、大儀そうにソファから立ち上がった。酒を取って来るらしい。
木戸はちょうど何か飲みたいと思っていた処であったので、有り難くそれを眺めていた。そして、読心術でも持っているのかしらん、と馬鹿らしい事を考えた。
井上は大雑把な性格である。であるが、人の気持ちに聡い所がある。
木戸と山縣の関係に、一番に気付いたのは彼だ。

「狂介は私に期待をしない。期待されないのは楽だよ。過大な期待が一番怖い。私はごく普通の人間なんだ。少しやっとうの腕が立っただけで。」
木戸の言葉に井上はちょっと困った顔をして、木戸を見遣る。
井上は木戸と歳が近く、多くの同輩を失った木戸にとって、数少ない気のおけない友人である。それをいいことに、木戸はソファにだらし無く寄り掛かって手の中の洋座布団を弄んだ。仕立ての良いスーツに皺がよっていたが、そんなことはどうでも良かった。

「狂介は、いいと思いますよ。俊輔や市は嫌がってますけど。俺は反対はしません。勿論、賛成もしませんが。」
木戸と山県の関係に対して、井上はそう評し、クリスタルのグラスに、贅沢に氷を乗せ、琥珀色の蒸留酒注いで木戸の前に置いてやる。
とろりとした蒸留酒はまぐわいの時の丁子油のようで、木戸はぞくりとした疼きを覚えた。



山県の細く長い指はとても器用に動く。
衆道の経験が無く、さらに寝子としては酷く薹の立った木戸の躯を、山県は悉く作り替えてしまった。
山県と情事を重ねることで、木戸は自分の本当の性質が殆ど妓に近い事に気付かされた。
木戸の躯は男を啣える事に歓喜を覚える。肉が分け入る時、その柔らかな、しかし芯が硬い感触を感じると、全身の毛穴が開き、じわり、と汗が滲み出て、頭の中はかっ、と、白くなる。正常な思考回路は全て分断され、脳を行き交うのは、途方も無い快感のみになる。
木戸は朦朧とした意識の中、自分が女の様な声を出しているのを聞いて、その事実にすら興奮を覚えて、いることに自嘲した。自分は、女。浅ましい女だ、と。

妻である松子を、木戸は深く愛している。それは今でも変わらないことだが、木戸は最早彼女と褥を共にすることは出来なっかった。昔、京の遊廓でならした頃が嘘のように、木戸の女への欲望はするりと無くなってしまった。
松子が若い役者と噂になった時も、木戸はそれを放っておいた。木戸は松子を責める気にはなれなかった。それが当然の結果だと思ったのだ。
松子はそれについて木戸を詰った。「やましい事実は何も有りません」と訴える松子に「やましい事がなければ別に良いではないか、私はお前を信頼しているから特に問い詰めなかったのだ」と木戸が言った。松子は遂に泣いた。
「貴方様のは信頼では有りません。ただ私への興味が無くなっただけです。問い詰めて責めて下さった方がどんなに良かったことか」
木戸は胸に縋りついて肩を拳で叩く松子に何も言い返せ無かった。木戸が黙っていることに、松子はますます泣いた。
一通り泣いて、松子は乱れた化粧を隠すように顔を背けた。そして、先程縋ったのが嘘だったように冷淡な態度で木戸から身を離した。そして木戸を一瞥した。
「妻になぞ、ならなければ良かった。桂小五郎の恋人の幾松であった頃の方がなんぼ幸せだったんやろ」
最早二人の関係は修復不可能な域にまで達したのだと、歯車が何処か欠けてしまったのだと木戸は悟った。



白いシャツ一枚だけを羽織った木戸は、執務室の長椅子にしどけなく横たわっていた。
椅子からずり落ちた左の足元には山県が居て、恭しく持ち上げたその足に、丁寧に舌を這わしている。
木戸は擽ったさに、ふ、と息を吐いて椅子のビロードに頬を擦り付けた。
「狂介は、私を抱いた後、友子ちゃんを抱くの」
山県は涎だらけの足から顔を上げ、眉をひそめた。
「ごめんごめん、下世話だったね」
少し上体を起こして、木戸が山県を見ると、山県はすっと無表情を作った。
「友子は、体調を崩したので実家に帰しています。身体が弱いので。」
山県が『ともこ』という音を口にのせた時、その無表情の中に酷く柔らかい顔があったのを木戸は見た。
木戸から見れば、友子は少し器量が良いだけのただの幼い少女でしかない。初めて対面した時も、山県の後ろに隠れ、もじもじと山県の服の裾を掴んでいた。
山県が焦がれて嫁にしたと聞いたが、木戸には友子のどこにそんな魅力が有るのかわからない。
「ふうん」
木戸から面白く無さ気な声が出たのは友子への嫉妬では無く、同じ恋愛結婚をした自分達夫婦と山県夫婦を比べたからだ。
山県はそれをどう取ったかはわからないが、それきり何も言わず、木戸の足を口に含んだ。
山県の薄い舌が、器用に足の甲に浮いた血管をなぞる。指は一本一本丁寧に舐めしゃぶられ、ぬめぬめと光っている。
山県の唇が踝の下の窪みからふくらはぎを通り、内太股に達すると、木戸は熱い吐息を漏らした。たったそれだけの刺激で年甲斐もなく、緩く勃起し始めている自分に、木戸は苦笑する。
自分の足元に跪く山県は何だか黒い大きな犬のようで、木戸は犬に愛撫を強要しているような妙な気分になった。
「きょ、うすけぇ。気持ち、いいっ」
山県の舌が脚の付け根の筋をしつこく行き来すると、太股の筋肉がぴくぴくと痙攣し、吊りそうになる。
木戸の左手が、山県の軽く整えてあるが、油っ気の少ない頭を掻き回すようにして乱すと、山県は気持ちよさそうに目を細め、ご褒美とばかりに芯を持ち始めている陰茎を舐め上げた。
ああ、と木戸は喘いで首筋を反らし、左手が山県の髪の毛をぎゅっと掴んだ。下半身にじわじわとした疼きが走り、頭の中、項の上辺りが、ぶわっと暖かくなる。

こうなってしまうと、木戸はもう自分の身体を制御出来ない。蜘蛛の巣に捕われた哀れな蝶の様に、藻掻けば藻掻く程身動きが取れなくなってゆく。
ただ頭は、快楽に支配された中にも僅かに冷静な部分がある。
ああ、この男が居ないと私は生きて行けない、と木戸は思う。そして、その思考に笑った。
私は大久保さんに恋をしている筈なのに、執務室の椅子で部下の情けに縋り、安い夜鷹のように足を開いている。恋なんてまやかしだ。肉欲を正当化するための常套句だ。
木戸は瞼の裏に、大久保の像を結ぼうとしたが、上手くいかなかった。仕方ないので山県の背に手を回して、狂った様に山県の名前を呼んだ。
この瞬間、木戸は大久保よりも、山県を愛しいと思った。自分の中で主張する熱が、腰を掴む力強い腕が、傷だらけの背中が、涙が出る程愛しかった。
あ、あ、あ、がくがくと揺さ振られるたびに声が出る。ぽたぽたと山県の汗が木戸の肌に落ち、限界が近いのか山県が小さく呻いて陰茎を引き抜こうとしたので、木戸は咄嗟にいや、と泣いて、抜かないでと懇願した。
山県は初めての時から、決して木戸にその精を触れさせようとしなかった。感極まった時は、必ず木戸の中から引き抜き、自分の手に射精した。木戸の腹や、太股にすら、それを零すことはなかった。
木戸はそれで良いとずっと思っていた。経験が無いながらも、中で射精されると大変であろう事は朧気に理解できたし、山県が自分を気遣ってくれているという事はわかっていた。
しかしこの時、木戸は山県に女の様に扱われたかった。無理だと知りながらも、山県の子を妊娠したいと思った。
山県は戸惑ったようだが、木戸が何度もお願いお願いと言い募ると、木戸の身体をぎゅうと抱き、髪に指を通した。
身体の奥に山県の精を注ぎ込まれ、木戸は泣いた。その瞬間、木戸はひどく幸福だった。

山県はすみませんでしたと謝って木戸の中から精液を丁寧に掻き出し、全身にくまなく濡れた手拭を滑らした。
「謝らないでよ。私が、頼んだんだ。」
そう言って木戸は、山県の背中の傷に指を這わせた。
「私の方こそごめんね。跡を付けるつもりは無かったんだけど。」
指先で傷をなぞると山県がぴくりと動く。指を離して見てみると、伸びた爪の間に山県の血肉が入り込んでいた。舌に載せてみると僅かに甘い気がして、木戸は眼を細める。
溺れている、と木戸は思った。いや、寧ろ流されているのかもしれない、とも。木戸は人間の本性を怠惰だと思っている。人は楽な方、心地好い方へ流されて行く生き物だ。
大久保への叶わぬ恋情に見切りを付けこの年下の愛しい男と堕ちる事は、どんなに魅力的であろうか。山県はきっとこれ以上の堕落にも付き合ってくれるだろう。
「ああ、もう狂介を解放してやろう。」
自分の考えを打ち消すように、木戸は心の中で自分に言い聞かせた。
自分に恋い焦がれていた高杉、高杉に恋い焦がれていた山県。その山県に縋る自分。汚らしいのは自分だ。と木戸は思う。



木戸が焦れば焦る程、木戸の脚は木戸の支配から離れたようにがくがくと震えた。火傷を負った人間が水を求めて這いずるように、木戸は一心不乱に廊下を進んで行く。
「恋は肉欲だ。」
私が恋をしているのは大久保だ。私が肉欲を感じるのは大久保だ。
もつれた舌で唱えると、口腔内に涎が溜る。木戸はそれを飲み込んだ。喉がごくりと浅ましい音を立てた。
「大久保さん」
木戸は大久保の執務室の戸を叩いて名を呼んだ。その声が媚態を含んでいることを木戸は自覚したが、最早構わなかった。
戸が開かれ、大久保は木戸を見た。その冷たい眼は木戸を射ぬく。木戸は背骨の神経の上を蜘蛛が這ったような心地を覚えた。じわりと眼球が潤んで、頭の中が霞み、貧血を起こしたように視界が暗くなり原色がちかちか現れては消える。
「大久保さん」
倒れこむように大久保の懐へ身を沈めながら、掻き出しきれなかった山県の精が零れるのを木戸は感じた。